【Interview】音楽家 近藤薫 ②「人のために曲を作ることは、ひょっとしたら自分には向いているのかも知れない」とそのときに思いました。

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はじめに

「音楽で生きていく。」インタビュー、音楽家、近藤薫の第2回目(全4回中)。

1回目の記事はこちら!

【Interview】「音楽で生きていく。」音楽家 近藤薫 ①(2019.3.2)

2019年2月28日

音楽で生きていく。第2回

「人のために曲を作ることは、ひょっとしたら自分には向いているのかも知れない」とそのときに思いました。

――近藤さんはバンド解散後、すぐにソロとしての道を歩み始めたのでしょうか。

近藤薫 じつはスィートショップを解散する前に、1枚、アニメのエンディングテーマ曲になった『あすなろの唄』というソロシングルを出しているんですよ。

当初は、スィートショップでというお話でしたが、当時のバンドが表現していたハードな音楽スタイルとは異なる、キラキラとしたアニメ作品だったことから、あのときは「バンドで手がけるよりも、ソロ名義で出そう」となって出したことでした。

――バンドを辞めてからは、ソロとしてやっていこうという意識でした?

近藤薫 解散したときは、他のバンドを組もうとか、他のメンバーと一緒にやろうという意識はまったくなかったように、ソロでやっていくしかないなと思っていましたね。

――同時に、職業作家としての仕事もやり始めましたよね。そのきっかけも教えてください。

近藤薫 ソロ活動を始めたばかりの頃は、他の人のために曲を作る発想はまったくないどころか、そんな職業があるんだということすら認識していませんでした。

きっかけは、そのときにお世話になっていた事務所の中へレーベルがあり、その中で手がけていた新人の子たちや企画グループ用に「誰か曲を作らなきゃいけない」状態が生まれ、「やってみたら?」と声をかけられたことからです。

当時は、「こういう仕事もありなんだな」と思い、手がけた形でした。

――その楽曲が認められ、どんどん広がった形だ。

近藤薫 その曲自体はけっして日の目を見たわけではなかったですけど、「人のために曲を作ることは、ひょっとしたら自分には向いているのかも知れない」と、そのときに思いましたね。

――その意識が、職業作家としての道筋も切り開いたわけだ。

近藤薫 そうです。ただし、作家としての仕事を始めたのは事務所を辞め、ソロアーティストとして独立してからでした。きっかけは、「楽曲コンペがあるから参加しないか」という話を人伝てでいただいたこと。

――近藤さんは、AKB48グループやジャニーズ系のグループ、郷ひろみさんや渡辺美里さんのようなベテラン勢から、アニメやゲーム系まで、いろんな方々へ楽曲を提供していますよね。

近藤薫 たまたまですけどね。最初に書かせてもらったのは、自分でも歌ったんですけど、「テニスの王子様」OVAのエンディングテーマ『ハロー&グッバイ』。

その当時の担当者の方が、「他にもいろんな楽曲コンペがあるから」といろいろ話を振ってくださるようになったことが、大きなきっかけになりました。

同業者の仲間の存在はすごく励みになりました。

――結果、ソロの道と職業作家としての道と両方を歩みだしたわけですが。一人で音楽だけで食べていくのは、正直最初は大変じゃなかったですか?

近藤薫 あの頃は、「どうやって日々生活していこうか」という時期でした。事務所を辞めて開放された気持ちもありましたけど、それまで当たり前に使っていたスタジオもないように、リハーサルをするにも自分でスタジオを借りなきゃいけないのはもちろん。「これからどうやって活動していけば良いのか?!」など、いろいろ考えることは多かったですね。

――いくら大変でも辞める気はなかったし、音楽で食っていく決意も固かったわけですよね。

近藤薫 自分には、もうそれしかなかったですからね。「音楽が好き」だとか「これしか出来ない」という意志だけで、ここまで繋いでいるようなものですから。

もちろん、夢の矛先を変え、音楽活動を辞めていく方々もいろいろと見てきました。長く活動している人たちの中にだって、表現の方法を変え、いろんな選択肢を持って音楽に携わり続けている人たちの姿も見ています。

――近藤さんの場合、ソロ活動を通して同業者であるシンガーソングライターの方々との繋がりや絆を深めていた面もありませんでした?

近藤薫 バンドを辞めてからはアコースティックなスタイルを軸に据えていれば、そのスタイルで表現することが好きだったように、弾き語りで活動をしている仲間たちとともにいろいろイベントもやっていました。それに、弾き語りで活動を行うソロアーティストの場合、フットワーク軽く出来ることもあって、一緒に手を組んでムーブメントを起こそうなど熱い動きをする人たちも実際多かったですからね。



――近藤さん自身、仲間がいたのは良い意味で力になっていました?

近藤薫 それはすごくなっていました。フリーになって、事務所やスタッフの人たちなど身近に支えてくれる人たちがいなくなったぶん、同業者の仲間の存在はすごく励みになりましたね。

作家としての成功も、要は結果の積み重ねですから。

――同時に、職業作家としての道も広がりだせば、そこの意識も強くなっていたのでしょうか?

近藤薫 自分にとって作家業は、音楽で食べていくための職業として捉えていたこと。ただし、ある程度、結果を出して売れないことには日々の生活が難しくなる。路頭に迷わないためにも、そこは頑張らなきゃという意識はありました。

――そこは、仕事として向き合っていたわけだ。

近藤薫 作家に関しては、完全に仕事としてやらせてもらっています。もちろん楽しい仕事ですけど、意識としてはそうでしたね。それに、ソロ活動をやっていたとはいえ、ライブハウスで対バンライブを行うだけでは、それで飯が食えるほどのギャラはなかなか稼げないのが現状ですから。

――近藤さん自身、アーティスト活動と作家活動は完全に分けて考えていたわけですね。

近藤薫 自分の中では分けていました。表現してゆく音楽のジャンル面では近いものがあったのかも知れないけど。自分の中では、職業作家とアーティストとの区別はしっかりと付けてやっていましたね。

――職業作家としても発注がくるきっかけ。それも、何かの作品によって支持が増えたからなのでしょうか?

近藤薫 AKB48やV6などへの楽曲提供が決まったときがそうでしたけど。一つ二つと実績が増えていくたびに、「一度、楽曲を聞かせてくれませんか?」と指名での楽曲オーダーもいただくようになりましたね。

もちろん実績だけがすべてじゃないけど、そういうのを積み重ねることで他の人たちからの観られ方も変わるんだなというのは、そのときに思いました。

――当然、コンペも多かったわけですよね。

近藤薫 作家はほとんどコンペです。どんなに売れてる作家の方でも、基本はコンペに参加してですから。

――中には、形にならなかった楽曲たちもあるわけだ。

近藤薫 むしろ、そっちのほうが多いです。みなさん成功した例だけを見てその人を語りますけど。どんな作家さんでも形にならなかった楽曲はたくさんあると思います。

作家の場合、ヒット曲を量産出来たら大先生扱いですけど、選ばれなかった時は、ホント塵扱いされますから(笑)まぁ、例えは大げさですけど。それくらい天国と地獄感はあるのかもしれない。

――作家として軌道に乗るまでにも、どうしても時間を要してしまうものなんですね。

近藤薫 要は、結果の積み重ねですよ。

自分の書いた楽曲に対して「アーティストの書く提供曲と職業作家が書く提供曲って違うよね」という声を聞いていました。

――近藤さん自身は、アーティスト/職業作家どちらかの道ではなく、両方を続けてゆくことが大切だったわけですよね。

近藤薫 自分がアーティストであって、作家でもある形が自分の理想。アーティスト活動を辞め、完全に職業作家として成功している方々もたくさんいますけど。自分は、アーティストもやりつつというところを守りたかったのはあります。

――つねに現役アーティストであることが大切だった?

近藤薫 いろんなところで、自分の書いた楽曲に対して「アーティストの書く提供曲と職業作家が書く提供曲って違うよね」という声を聞いていたんですよ。僕自身は職業作家の意識で作っていたんですけど、何故か「アーティストの書く曲だよね」と評価してもらうことが多かった。僕自身、その理由は正直わからないですけど。きっと自分が歌い手でもあるように、歌心や歌力も楽曲の中へ込められていたからなのかも知れないですね。

――現場の空気に触れていることが、何よりも大きいんでしょうね。

近藤薫 あー、そうかも知れないですね。ステージに立って歌うときの感覚で曲を作るように、そこが職業作家に徹している方々との違いなのかも知れないですね。

>>第3回につづく

【interview】音楽家 近藤薫 ③ 「自分が最終的に大きなステージで歌うことは、今もあきらめてはいないです。」

2019年3月5日

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