はじめに
「音楽で生きていく。」インタビュー、安原兵衛の第3回目(全5回中)。
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音楽で生きていく。
安原兵衛 第3回目
――前回の取材で、安原さんは作曲/編曲家としての将来の展望について、「50代に入っても編曲家として活動をしていたのは本当にひと握りの方々で、セカンドキャリアへと進む人たちも目にしていたように、僕自身、40代へ突入して以降の将来図という面でもいろいろ考えることが増えていました」と語ってくださいました。そういった現実を見据えたうえで、どう自分の音楽ライフを築きあげてゆくか…になりますよね。
安原 そうですね。僕も、今回の取材をコーディネイトしてくださった近藤薫さんも、すごい早さで移り変わってゆく時代の中、どうやって未来へ続く道筋を作りあげるかを考え続けてきたし、今でも情報交換をし続けている関係。近藤さんはいち早くそのフォーマットを先人を切って作っていただいているので(第一回目の連載を参照)、僕はその背中を見ながらモチベーションを上げ続けています。
――一つのことに特化するのではなくいろんな道を広げねばならない。それが、今の時代なんでしょうね。
安原 アーティストとしても50代で、しかも最前線で活動を続けていくなんて、宝くじの一等を当てるくらいに難しいこと。今でも毎年何百というアーティストがデビューをするけど、3年後に残るのは、その中の1-2割。そう計算していくと、デビューから10年間やり続けるだけでもそうとう厳しいことですからね。
――音楽業界で長く活動をしているミュージシャンの方々も相応にいますけど、みなさん、いろんな表現活動や異なるビジネスを行ったうえで、ミュージシャン活動も長く継続している方々が多ければ、その道を選ぶ人たちも増えている印象を受けます。
安原 今は、その道を作りあげながら活動を継続させているミュージシャンが多いんじゃないですかねぇ。昔は、ミュージシャンとして音楽業界で生きるうえで、いろんな方々が「芸術というプライド」をまとっていたけど、今は、それがだいぶ無くなっていますからね。
――その風潮は、安原さん自身も感じていることなんですね。
安原 仕事柄ミュージシャンと接していく中、みなさんの中から音楽をやっていくうえでのプライドはものすごく感じていました。「音楽以外はやらない」はもちろん、自分の得意ジャンル以外のことをやるのは「魂を売った」になるみたいな。
今や、そういう風潮もなくなり出していますけど、まだまだミュージシャンの中には、そこのプライドを持たれる方が多い気がします。いまだに「ミュージシャンは名刺を持たない」という風潮など、いろんなものがいっぱいありますからね。
七尾旅人さんに本当に感謝していたのが、旅人さんがインタヴューの中でも、僕と一緒にアルバムを作ったことをすごく語ってくださったこと。
――安原さんと言えば、七尾旅人さんと一緒に音楽制作を始め、そこで脚光を浴びた印象もあります。
安原 旅人さんと出会い、一緒に制作した経験はとても大きなことでした。極論を言うなら、彼と出会わなかったら今の僕はなかったです。
――それほどまでに大きな存在だったわけですね。
安原 そうなんです。僕は旅人さんのサウンド面のサポート役を担ってたといいますか。旅人さんが作詞作曲をし、そしてなんとなくなサウンドのイメージを持ってきて、そこに対してコンピューターだったりシンセサイザー、エレキギター、ベースなどで僕が形にしていき、必要あらばスタジオでミュージシャンに演奏していただき、最終的にエンジニアさんがミックスをするという流れでした。
旅人さんやメーカーのご厚意でCo-Produceという形でクレジットもして頂きました。
ちなみにその時のエンジニアさん(渡部高士さん)との出会いも自分にとってはものすごく有難く、その後の運命を決める重要な存在となりました。
――そこでの実績を評価されたことが、安原さんの今の道へ繋がったのでしょうか?
安原 そうです。旅人さんと一緒に作った最初のアルバム『雨に撃たえば…!disc 2』がものすごい評価を受けたことが大きかったと思います。だけどその評価も、はっきり言って本人の力が一番強かったことのおかげです。
僕自身に関しては、そこでの経験から人脈が広がり、そして旅人さんの作品を聞いて僕の編曲家としてのセンスを気に入ってくださった人たちからの依頼が届き、そこから新たな仕事へ繋がったような、20代の頃の自分は、そういう形で仕事のオファーが広がり続けていました。
――一つのスタイルが認められ支持を得ると、同じような色を求められがちにもなりませんでした?
安原 それはありました。だからこそ、発注してくださる方々には「あれは旅人さんとの化学変化の成果であって、別の人とやったらそレはまた別の形になりますよ」と先に伝え、「それでもやりたい」と言ってくださった方々とやっていました。川本真琴さんは、まさにその話の流れでいっしょにアルバムを作りあげました。
――そうやって積み重ねた作品の評価が広がるにつれ、安原さんの評判を上げれば、それが新たな繋がりとして結びついてゆく流れにもなったのでしょうね。
安原 その通りです。当時、旅人さんに本当に感謝していたのが、旅人さんがインタヴューの中でも、僕と一緒にアルバムを作ったことをすごく語ってくださったこと。当時の旅人さんのライブも僕はお手伝いをしていたように、そこで僕の存在を知る人もいました。そうやって、いろんなメディアを通し、僕の存在を旅人さんが広めてくれたことで自分の仕事の枠も広がったように、旅人さんには本当に感謝しています。
自分で楽曲を作る以上、安原兵衛という色の判子は楽曲のあちこちに反映されてゆくこと。
――安原さん自身、自分発信を強めるアーティストの方々と仕事をしていれば、歌に特化したアーティストの方々の楽曲も数多く手がけていますよね。
安原 30代はそういう仕事が多かったですね。他にも、アニソン系を手がけることも多かったです。アニソンを多く手がけるようになったきっかけも、「とんがったアレンジをする人を」と声をかけていただけたことから。そこで作曲や楽曲アレンジが認められ、次々とオファーが増えだし、気がついたらアニソンも多く手がけるようになっていました。それこそ、一時期は秋葉原で2時間くらい買い物をしていると、何かしら自分の曲が耳に飛び込んでくるような時期もありました。
――アニソンにも時代の流れはあるのでしょうか?
安原 アニソンにも、それはあると思います。確かにJ-POPやJ-ROCKに比べたら不動のフォーマットはありますけど、それでもアニソンにもトレンドはあります。
――安原さんと言えば、アーティストのカラーを上手く引き出しては、そこへ新しい色を加えてゆく作家であり、サウンドプロデューサーという印象も強く感じています。
安原 僕がアーティストの楽曲を手がけるときに心がけているのが、極力ライブに行ってその姿を見れば、本人と話はもちろん。メーカーの方もどういう楽曲を求めているのかをヒアリングしてゆくこと。そうしていかないことには、そのアーティストのイメージをつかむのが難しくなりますし、その人自身の歴史もわからないことには、そのアーティストが求めたいものに対してのヒットを打てないので。
――いわゆる、小室哲哉さんのような「その人の色にアーティスト側が染まる」というスタイルとは逆ですよね。
安原 「描き出すカラーが決まっているが故に、自分を求めるのなら、その色でお願いします」というプロデューサーももちろんいますし、僕も最初はそうだったんですけど。途中からはその辺は柔軟になっていったなと思います。と言うのも、自分で楽曲を作る以上、安原兵衛という色の判子は楽曲のあちこちに反映されること。たとえ「ここをこうしてくれ」「この部分は、あーしてくれ」と2-3個言われ、それを反映させたところで、僕の強い色の判子が消えることはない。それをわかっているからこそ、そこは柔軟に「いいですよ」と受け入れるようにもなりましたね。
>>第4回へつづく