はじめに
「音楽で生きていく。」インタビュー、安原兵衛の第2回目(全5回中)。
1回目の記事はこちら!
音楽で生きていく。
安原兵衛 第2回目
――安原さんは、レコーディングスタジオで作業を行うのが当然だった時代の中、いち早く自宅録音出来る環境を整え、そこでの作業工程の即時性を強みにしながら評価を得てきました。でも、何故に自宅へスタジオを作ったのでしょうか?
安原 当時はまだバンド活動も行っていたように、もともとは自分のバンドの音源を作るために必要なこととして、打ち込み用の機材からレコーディング用まで「この機材を買えばいい」「あの機材も揃えたい」みたいなことをやっていました。
当時は、一つの機材を買うのにもバイクを購入できるくらいの金額を要していたように、高校1年生からつねにローンとの戦いの日々でもありましたけど(笑)。新しい機材を揃えていじるのが、とにかく好きだったんですよね。
――そこが、自宅にレコーディング環境を整えたきっかけだったわけですね。
安原 結果、そうなりましたね。あの頃は、今みたいに情報がひょいひょい転がっていない時代。とにかく、自分で機材をいじくり倒さないと把握できない。だけど、機材をいじくり倒すことで音楽的な知識や技術を深めることが出来ていたのも事実。
今のように、最初から出来る環境が機材の中に取り揃えられていることで楽にスタートできる環境というメリットは良いなと思いますけど。
わからないからこそ自分で探し出し作り上げることが楽しかったし、それが自分の個性や持ち味にも繋がったように、その利便性によって失ったものもあるのかな?とも思います。
若い人たちは、マルチタスクがデフォルトになっていますからね。
――これまでにも安原さんは、七尾旅人/川本真琴/ハルカトミユキ/福原美穂/TRF/沢尻エリカ/高橋瞳/鈴木雅之/Syrup 16g/小池徹平/伊藤由奈/IMALU/ゆるめるモ!/櫻井里花などなど、名前を上げたらきりがないほど数多くの方々のサウンドプロデュース/作曲/編曲を手がけています。これだけ多岐に渡る人たちの楽曲を手がけていけるのも、多様な音楽ジャンルに対応できる音楽性を持っていれば、つねに時代の流れにアンテナを張り続けているからこそ、いろんな人たちに求められるのかなと想像します。
安原 アンテナに関しては常に張ってはいますけど、引っ掛かった音楽性に対してのアクションを起こすときと、起こせないときがあると言いますか。
次から次へアウトプットし続ける忙しさの中、インプットをしてゆく余裕をが持てず自分のフィルターを納得いく形でアウトプットすることがかなりしんどかったです。
――サウンドプロデューサーや作曲家、アレンジャーとして仕事を行う以上、時代の流れを読み取るのも必要なことですか?
安原 そこは大切だと思います。とくにアレンジャー業務は、時代の流れに対応してゆく環境が求められれば、そこでどう感性を柔軟に発揮していけるのかがとても大事なこと。
まさに時代を読み取る仕事でもあるように、40代までによほどのモンスターヒットを飛ばして知名度を得るか、得意な武器を持たない限りは、40代以降から需要はジワジワ下がっていくなとも僕は感じていました。
それこそ、昔は一つ強みとなる個性を持つことや、何でもマルチに出来ることが強みになっていましたけど。時代の波を泳ぐように注目を集め世の中に出てきた、今の時代を肌で感じている感性豊かな若手たちと同じ舞台で活躍するには、ただ、個性があるだけでは厳しくなっているのも現状です。
誰もが知ってるヒット曲が何曲もないと、40歳を超えてからは、若い人たちと同じ土俵で勝負していくのは厳しくなるなというのは僕自身も感じていること。
――安原さん自身は、以前から一人で完全プロデュース出来る方だったように、マルチタスクなスタイルの先駆けの方。でも今は、一人で楽曲を仕上げるまで持っていくのが当たり前の時代になりました。
安原 若い人たちは、それがデフォルトになっていますからね。僕みたいに中途半端にバブルを知っている世代と、(音楽ビジネス環境面で)どん底から来た世代とでは金銭感覚も違いますしね(笑)。
当時は、日給にして10万円や15万円が普通だったので、一週間働けば当面食っていけました。
――安原さん自身、音楽業界のいい時代も経験しているわけですね。
安原 僕は、かろうじて音楽バブルにも関わった世代です。当時は、日給にして10万円や15万円が普通だったので、一週間働けば当面食っていける感じでしたし、オファーもいろいろ来る環境でした。だけど僕の場合、機材への投資もだいぶしていたので、入っても出ていっちゃうという日々でもありましたけどね(笑)。
――多岐に渡るアーティストの方々とやってきたように、それだけ様々なオファーが来るのも、その案件に対応するだけの知識や技術を持っていたからだと想像します。
安原 引き出しはなんとか増やしてきたので大体のオーダーには応えられましたけど、時には、はったりで仕事を引き受けたこともありました(笑)。
――えっ、そうなんですか?
安原 先に案件を受けたうえで、どう対応してゆくかを考える。「これ、出来るかな?」と思いながらも受け、短期間の中で猛勉強をして対応してゆくこともやっていました。その経験も重ねたことが対応力や瞬発力のトレーニングになりましたし、意外に結果も出せましたからね。
――先の話にもありましたが、仕事が詰まってくると吸収する時間をどう作るかが難しくなりません?
安原 それはありました。とくに、30代後半の時期に一度その壁を経験、いろいろ考える時期も体験してきました。
――そこ、教えてください。
安原 音楽バブルも過ぎ去り、徐々に制作面での単価が縮小されてゆく中、そうなると、こちらにも当然皺寄せが来るわけじゃないですか。単価が下がってきたぶん、仕事量を増やしていく。そうなると、毎日のようにアレンジを行うルーティンワークを繰り返す日々になり、新たな刺激をインプットしてゆく工程が追いつかなくなる。
その環境の中で生業を得ていた時期に自分自身が家庭を築いたこともあり、「今の状態のままずっと家族を養い続けることが本当に出来るのか」と思いを巡らせれば、それが将来の展望を見据えたときの壁として立ちはだかってきました。
――背負うものがあると、いろいろ考えてしまいますよね。
安原 そうですねぇ。現実的な話、家族と暮らす根城となるマンションのローンや子供の養育費のことなど、将来的に必要となる資産がリアルになっていましたからね。
あの当時の先輩方を見ていても、50代に入っても編曲家として活動をしていたのは本当にひと握りの方々。セカンドキャリアへと進む人たちも目にしていたように、僕自身、40代へ突入して以降の将来図という面でもいろいろ考えることは増えていました。
>>第3回へつづく