【Interview】「音楽で生きていく。」安原兵衛 ①(2019.3.13)

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「もはや音楽は斜陽産業だ」「CDが売れないように、ビジネスとしての魅力に欠けた市場に成り果てた」など、流行/トレンドという言葉の洋服を着たがる人たちほど、現在の音楽産業に向け、知ったかぶりで辛辣な言葉を投げかける。でも、本当に音楽は廃れているのか…。答えは、「NO」だ。

確かに、一時期と比べたら全体のマーケットは縮小している。でも、昔も今も、音楽を心の拠り所にしている人たちが生まれることはあれ、音楽を人生の中から消し去る人は一人としていない。

誰もが日々の生活の中でかならず音楽に触れ、少なからず心を揺さぶられている。もちろん、その音楽を作り出す人たちや発信してゆく人たちも、世代が途切れることなく現れては、音楽という世界の中で貘のように夢をむさぼり喰っている。

ここでは、「音楽と生きていく」を題材に、音楽と共に人生を歩み続けている人の生き方にスポットを当てたい。

音楽で生きていく。

第二回目に登場するのは、ミュージジャンと作曲家/編曲家という二つの道を歩み始め、今では「音楽プロデュース、CM、映像音楽、BGM、効果音制作、J-ROCK/POPSの作曲編曲、エンジニアリング、マスタリング、リミックス、制作進行と、多岐に渡る音楽制作業務を一手に担う安原兵衛さん。最近では、そこへレーベル業務やミュージシャン業が加われば、さらにマネージメントも行おうとしている。彼が、どんな風に「音楽と共に生きている」のか。

今回は、連載第一回に登場した近藤薫さんの紹介を受けてという理由もあり、最期に安原兵衛&近藤薫によるミニ対談も行った。

安原兵衛

ローディとして、音楽業界へ。

――まずは、安原さんが音楽業界で働き始めたきっかけから教えてください。

安原 中学生の頃からミュージシャンを目指して楽器を始めれば、その後にバンドも結成。当時から、アーティスト志望/完全プロ趣向という気持ちで活動をしていました。

――ソロとはいえ、LOVE DEVICE名義でメジャーデビューも果たしました。

安原 僕の場合、先に裏方として音楽業界で働き始めています。メジャーデビューはLOVE DEVICEとしてでしたが、じつはその前にも、当時活動をしていたバンドでレコード会社のコンプレーションCDで人気を勝ち取りデビューへ向けた育成期間に入っていた経験もありました。

そのバンドで僕はヴォーカルを担当。だけど、楽曲や編曲は良いが歌が弱いということで、バンドとしてはメジャーデビューには至らず「安原兵衛」のユニットとしてLOVE DEVICE名義でメジャーデビューいたしました。

――一般的にはアーティスト/バンドとして活動を続け、その先の道として裏方へまわることが多い中、その逆というパターンも珍しいですよね。

安原 ですね。だけど世の中へ公表してないだけで、意外に誰それのローディをやっていた経験を生かして自分もデビューのチャンスをつかんだ方は少なからずいらっしゃいます。自分も、じつはそのパターン。

ローディとしての修行を積み重ねながら自分の技術を磨き、そこからチャンスを築いていますし、ローディを通した経験や人脈からチャンスをつかみデビューへの道を繋げてゆく流れは、当時は実際にありましたからね。

――安原さんは裏方として活動を行いながら、バンド活動もやっていたわけですね。

安原 僕の場合は、学生時代からバンド活動を行いながら。高校卒業と同時に進学や就職をすることなく、たまたま見つけた「ローディ募集」の告知に応募。ローディとしての仕事をしながら、自分のバンド活動も続けていました。

――そこで音楽業界のノウハウをつかんだ形だ。

安原 そうですね。ローディとしての経験は1年半くらい。そこで得た繋がりから、先の道へいろいろ繋がり出した形でした。

ミュージシャンという職業も良いけど、音楽をプロデュースする側も「音楽を職業にする」うえでは十分成り立つ仕事だなと感じました。

――安原さんの場合、ローディとして仕事を始めたことが音楽業界へ入るきっかけになったわけですね。

安原 そうです。ただし、「もう一回人生をやり直せる」となったときにふたたびローディから始めるか?と問われたら、経験上、そこの返答は難しいですね(笑)。

――ローディ業務は過酷ですよね。

安原 そうなんです(笑)。今、振り返ると、当時の労働時間はハンパなかったです。とにかく忙しい毎日で、休みも月に3日あったかなぁみたいな日々でした。

――そこで、いろんな技術を学んだわけですか?

安原 知識はどんどん入ってきましたけど、技術に関しては観て盗めの世界。僕の場合、そこでプロ意識をとても培えたなと思っていますし、そのときの経験が無かったら、今、ここにはいないです。

――アマチュアとプロとしての意識の違いを肌で感じた経験は、大きなことなんですね。

安原 大きいなと思います。たとえばの話、えんぴつをカッターナイフで削るときに、アマチュアの世界でやっていく中ではそこそこ尖っていれば完成でも良かったけど。プロの場合、さらにそこから研いでゆく作業をしなければ世の中には出せない。そこの意識は、すごく植えつけられました。

――その時点での安原さんは、まだ作曲家ではなくミュージシャン志望だったわけですよね。

安原 まだバンド活動を中心に据えていた頃で、プロとしての作曲や編曲活動は行っていませんでした。




――作曲家や編曲家を目指したきっかけも興味があります。

安原 もともと曲を書くのが好きだったので、「作曲家としての仕事も面白そう」という興味はありました。僕がローディを始めたきっかけでもあったのが、親に「就職しないでアーティストで食べていく」と宣言した以上、まずは音楽の仕事を始めなきゃということからでした。

最初はローディとして活動を始めながら。その後、さまざまな現場でいろんなプロデューサーのもとでのアシスタント業務を行うようになりました。そこで見えたのが、アーティスト活動は傍目から見たら華やかですし夢がとてもありますが、じつは収入面も含め大変な職業だということを思い知らされました。

同時にアーティスが世に出る中でそこには必ずプロデューサーというものが存在して、メーカーがそこに対して多額の予算を出す。その様を見ながら、ミュージシャンという職業も良いけど、音楽をプロデュースする側も「音楽を職業にする」うえでは十分成り立つ仕事だなと感じましたし、これを職業にすることで親も安心を覚えるなと思いました。その頃からです、ミュージシャンを支える裏方として生活を成り立たせたい気持ちも強く抱くようになったのは。

「この環境を武器にすれば、プロとして食べていける」という手応えを感じていました。

――安原さんがレコーディング現場の世界へ入った頃は、いわゆるレコーディングスタジオを抑えて作業をするのが主だった時代ですよね。

安原 そうです。むしろ、スタジオオンリーで作業をしていた時代でした。

――その時代に、安原さんは一つのチャンスをつかんだと聞きました。

安原 当時、機材の値段も高くそして扱いも難しく、個人レベルで扱えるようなものではなかったのでスタジオでしかレコーディングの仕事は出来なかった時代でした。

ただ自分は当時としては珍しく、コンピューターでのプリプロダクションをいち早く構築させ、自宅でプリプロダクションができる環境を作りました。 僕は、スタジオでも1年半ほどアシスタント業務を行っていましたが、独立してすぐにサウンドプロデューサーとしての仕事を得るようになったのも、その頃から様々な機材を取り揃えたスタジオを自宅に作っていたように、レコーディング環境を作りあげていたことが大きかったと思います。

しかも僕自身、楽器もいろいろと弾けたことから、自宅で作曲や編曲まですべて出来てしまう。つまり、安原兵衛にお願いをすると、スタジオ作業よりもかなり安く (レベルの高い音楽が)仕上がれば、当時は目新しい形でもあったことから、いろいろ依頼を受けるようにもなりました。

今でこそ宅録は当たり前の環境ですが、あの頃はレコーディングを行うならスタジオが完全主流の時代でしたから、そこが僕の強みにもなったことでした。

――当時のスタジオ代、けっこうな値段をしていましたよね。

安原 当時はプリ・プロダクションをやるのでさえ、スタジオを1日抑えて15万円くらい。そこへマニピュレーターさんという技術屋さんやレコーディングエンジニアさんも加わることで、1日30~40万円は作業を行うのに必要でした。僕の場合、自宅のレコーディングスタジオを使うことでプリプロダクションなら10万円くらいでやっていました。

それもあって依頼がぼちぼち来るようになり、あの当時は「この環境を武器にすれば、プロとして食べていける」手応えを感じていましたし、実際にそこから音楽業界へ自分の名前をビジネスにした形で入り込めました。

>>第2回へつづく

【Interview】安原兵衛②「一つの機材を買うのにもバイクを購入できるくらいの金額を要していたように、つねにローンとの戦いの日々でもありました(笑)。」

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